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『演劇工房じゅ★えん』物語 誕生前夜 Edit

 あの日、10月23日がすべての始まりだった。私は埼玉にある「きらり☆ふじみ」というホールの研修室で平田オリザのワークショップに参加していた。これも後から考えると何かの因縁だったかもしれない。もちろんサトル君とキャラメル台本を上演したいと話していたことが伏線として存在していた。

 最初の揺れは午後最後のセッションが終わろうとしている時だった。関東でも地震はある。多くの場合東北地方の太平洋沖が通例だ。その時もそう思った。夕食休憩に入り、近くのラーメン屋のテレビで、震源が新潟であると知ったときの驚き、しかも震度6強。家族の安否が気になる。携帯は既につながらなかった。メールを送る。夜のセッションに戻るため、屋外に出ると電信柱が左右に大きく揺れた。2回目の余震だった。「とりあえず無事。避難しました」と返信が届いた時の安堵感は今も忘れない。折り返したメールは翌日まで届かなかったそうだ。

 翌日、上越に戻り家族と再会した。地震の被害状況が次第に明らかになってくる。大学でも募金活動が始まり、高本さんは中越へと災害対策服もどきの服装で出かけていった。ボランティア、募金。私は募金は好きではない。自分の中にある自己満足感や欺瞞といううさんくささをうまく処理できないからだ。それでも、この金が確実に何か役に立つ、と考え数回、募金箱に金を入れた。「自分にできること、自分にしかできないことが何かあるのではないか。」そう考え始めたのは地震からしばらくたってからだった。

 地震から1ヶ月以上過ぎ、余震も落ち着いてきた頃、夕食の話題で地震の話になった。小学校2年生の息子が言った。「地震って言わないでよ」。瞳の奥に地震におびえている様子が伺えた。比較的被害が少なかった上越の子どもでさえ、未だにその時のショックを引きずり、「地震」という言葉を聞いただけで落ち着かなくなる。被災地で家や家族、友達を失い、避難所で生活する子どもたちの心の傷はいかばかりだろう・・。マスコミでも子どもたちや被災した方の心のケアの必要性が話題になっていた。

 私は大学院で、対話と演劇的要素がどのようにコミュニケーションに関わるのかを研究した。演劇部の練習にも参加させて頂き、お手伝いもさせて頂いた。「自分にできること」ともやもやしていた気持ちと、研究してきたこと、横田君との話がここでつながった。「ケンジ先生」をやろう。演劇を観ている1時間半というわずかな時間でも、地震や不自由な生活のことを忘れ、楽しんでもらいたい。観おわった後に、少しでも心に夢や希望や勇気の火をともしてもらいたい。「ケンジ先生」ならそれができそうな気がした。

 話はサトル君、高本さん、館さん、チカ君と広がり、上映会による団員募集、練習開始、公演場所の選定、後援取得とどんどん具体化してきた。そして今日、2005年1月29日(土)、決起集会(総会)という名の宴会でほぼ正式に動き出す。軌道に乗るまではまだ時間がかかるかもしれない。問題は山積しているかもしれない。しかし、同じ志をもって集まった仲間同士、どんどん対話して子どもたちを励ますための劇を作っていきたい。なかなかメンバーの多くが集まれなかった。今日の決起集会で思いを共有することで、われわれはそのスタートラインに立つのかもしれない。

 

 

 

 

記事カテゴリー: [演出ノート?]


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